©Hirosaki Univ. & Akira Yoshino 2005

 東北の古都弘前はまれに見る建築の町であるということが出来ます。長勝寺の勇壮な山門、誓願寺の瀟洒な山門、大円寺(最勝院)の優美な五重塔、全国的にも珍しい栄螺堂などの仏教建築、昭和を代表する建築家の前川國男による弘前市役所、市民会館、市立博物館や斎場、そして日本人によるモダニズム建築最初の登録文化財となった木村産業研究所などの近代建築が、まさに所狭しと並び立つ町なのです。そうした建築群の中でひときわ異彩を放っているのが、明治期から大正期にかけての洋風建築であるといえます。

 弘前の洋風建築最大の功労者は、代々の津軽藩城大工の家に弘化2年(1845年)に生まれた堀江佐吉というひとりの棟梁でした。彼は明治12年に函館にわたりここで1年間をすごします。この時に函館の洋風建築群を学んだことが、後の彼の様式に大きな影響を及ぼしたといわれています。こんにちも残る佐吉の建築は旧第五十九銀行本店本館(国指定重文、現青森銀行記念館)、旧弘前市立図書館(県指定重宝)、偕行社(国指定重文、現弘前女子厚生学院記念館)をはじめとして弘前の重要な文化資源となっています。

 そうした佐吉のもとからは、彼の親族をはじめとして何人かの優秀な棟梁が出ました。この外国人教師館の施工にあたった川元重次郎もそうした佐吉門下のひとりです。川元が手がけた建築としては、旧制青森県尋常中学校校舎(現弘前高等学校鏡ヶ丘記念館)や田中忠五郎と共同で請け負った弘前高等学校の校舎が有名ですが、移築から本展にいたる調査の中で、この外国人教師館も川元の手によって大正13年から14年にかけて建てられたものであることが判明しました。当初は本学に程近い富田3丁目に北側を正面にして二棟並んで建っていましたが、ここに移築されたのはそのうちの向かって左側(東側)の建物です。正面から見ると、なんとなくアンバランスな感じがしますが、これはそもそも二棟を併せ見たときに左右対称になるように設計されていたためです。当初の仕様書を見ると、外装は一階が下見板張り、二階がストゥッコ(漆喰)仕上げ、屋根は石綿盤(スレート状のもの)葺および亜鉛鍍金鉄板でした。内部はリノリウムが敷き詰められ、各居室に大理石製の暖炉が設置されていました。また階段下には女中部屋が設けられるなど、当時の世相や「外国人のための」建築として工夫された跡をうかがい知ることが出来ます。またこの教師館の青焼図面の存在も確認されていますが、より具体的に当時の姿を忍ぶことができる貴重な資料でとなっています。

青焼図面(平面図および立面図) 青焼図面(玄関詳細、間仕切入口詳細、出窓詳細)
青焼図面(階段、浴室、洗面所等および物置) 青焼図面(暖炉詳細図)
移築前の教師館玄関 移築前の暖炉