©Hirosaki Univ. & Akira Yoshino 2005

 旧制高等学校ではヨーロッパ語を母語とする外国人を招いて語学教育にあたっていました。弘前高等学校でも大正10年から昭和20年までの間に6名のドイツ語教師と9名の英語教師が教鞭を執りました。あるいはドイツやイギリスで大学を卒業して間もない気鋭の青年であったり、あるいはすでに日本国内で語学教師の経験を持つベテランであったり、またあるいは海外の会社の現地職員として働く商社マンであったりと、彼らの顔ぶれは多彩なものでした。

 こうした外国人教師のもとで、弘高生たちは生の外国語を学んだだけではなく、キャンパス近くの富田にあった外国人教師官舎を訪れて(押しかけて?)は彼らと語り合い、ドイツやイギリスといったヨーロッパの文化の一端にも触れていたのです。昭和14年から17年にかけてドイツ語を教えていたアルフレート・ハンフトマンは毎週火曜日に「ドイツの夕べ」を開き、そのたびに数人の弘高生が教師官舎を訪れていたといいます。

アルフレート・ハンフトマン ハンフトマン離任時、弘前駅にて

 弘前高等学校と彼らの間でかわされた契約書からは、その破格の待遇が見えてきます。初期の外国人教師の月給はわずかな差はありますがほぼ425円。大正14年に竣工する外国人教師館二棟分の価格が11,680円でしたから、一棟分(5840円)の約7%にあたります。一棟を約3,000万円と考えてこんにちの金額に換算すると、実に200万円以上の価値があることになります。

 しかしながら、時代は戦争につぐ戦争の日々でした。第二次高等学校令の公布は日清戦争勃発と同じ1894年であり、旧制高校の終焉は第二次世界大戦での日本の敗北による政治体制の変化が要因のひとつとなっているわけですから、旧制高校の歴史は戦争とともにあるとも言えるでしょう。ことに第二次世界大戦に向けての流れの中で、「敵国」の人々の立場は悪化の一途をたどりました。英語教師は昭和15年3月をもって雇用されなくなりますが、ドイツ語教師はその後もさらに優遇されています。しかしそれも昭和20年5月のドイツの無条件降伏とともに終わりを告げ、文部省はすべての傭外国人教師を解雇する方針を打ち出します。

氏名
担当
契約開始
契約終了
S. H. ニコルス
英語
1921(T. 10)年3月30日
1922(T. 11)年3月28日
Sherley H. Nichols
C. W. アイグルハート
英語
1922(T. 11)年4月13日
1923(T. 12)年5月31日
Charles Wheeler Iglehart
H. アドリアン
ドイツ語
1922(T. 11)年7月1日
1926(T. 15)年3月31日
Heinz Adrian
V. F. レンプリーア
英語
1923(T. 12)年5月16日
1926(T. 15)年8月31日
Victor F. Lempriere
R. O. トーナク
ドイツ語
1926(T. 15)年6月7日
1931(S. 6)年4月30日
Rudolf Otto Thonak
H. G. P. ブルール
英語
1926(T. 15)年9月20日
1928(S. 3)年3月31日
Henry George Percy Bruhl
A. P. ロシター
英語
1928(S. 3)年4月1日
1929(S. 4)年8月31日
A. P. Rossiter
J. L. トマス
英語
1929(S. 4)年9月19日
1932(S. 7)年9月18日
John Laing Thomas
K. マウ
ドイツ語
1931(S. 6)年6月1日
1935(S. 10)年3月31日
Kurt Mau
T. O. リース
英語
1932(S. 7)年10月1日
1935(S. 10)年3月31日
T. Orde Lees
L. W. ブッシュ
英語
1935(S. 10)年4月1日
1937(S. 12)年3月31日
Lewis William Bush
O. ウルハン
ドイツ語
1935(S. 10)年5月1日
1938(S. 13)年12月31日
Otto Urhan
G. C. I. ローリングス
英語
1937(S. 12)年8月7日
1940(S. 15)年3月31日
Gerard C. I. Rawlings
A. G. ハンフトマン
ドイツ語
1939(S. 14)年4月1日
1942(S. 17)年3月31日
Alfred Georg Hanftmann
R. ビンケンシュタイン
ドイツ語
1942(S. 17)年4月1日
1945(S. 20)年9月30日
Rolf Binkenstein

 旧制高等学校が「エリート養成」校だったことを考えると、彼らの存在は戦後日本の外国観の形成に少なからぬ影響を及ぼしていたと考えられます。彼らについての様々な側面からの研究の進展が今後おおいに期待されます。