©Hirosaki Univ. & Akira Yoshino 2005

 明治18年に内閣制度が発足し、森有礼が初代文部大臣となりました。翌明治19年にはそれまでの「教育令」が廃止され、代わりに「帝国大学令」「師範学校令」「中学校令」「小学校令」が公布されて新たな学制がスタートしました。このうちの「中学校令」に基づいて設置された「高等中学校」が旧制高等学校の前身となります。明治27年には「高等学校令」が公布され、全国に第一から第五までの5つの高等学校が設置されました(後に第八まで設置される)。その後大正7年に新たな「高等学校令」が公布され、各地に次々と高等学校が設置されていきます。旧制弘前高等学校は、このいわゆる第二次高等学校令に基づいて大正9年に設置されたものです。

 旧制高等学校には3年制と7年制がありましたが弘前高等学校は3年制で、選択する第一外国語によって文甲(独)、文乙(英)、理甲(独)、理乙(英)の4つのコースに分かれていました。初代の校長には、鹿児島第一中学校校長であった秋田實が着任しました。開校当時はまだ仮校舎でのスタートでしたが、本校舎は弘前の棟梁川元重次郎と田中忠五郎の二人が請負人となって、現在の弘前大学文京町キャンパスがあるこの土地で同年8月に起工、3年後の大正12年12月に竣工をむかえたものです。

 

戦前の学制

初代校長秋田實 棟札 校章
弘前高等学校本校舎
弘前高等学校講堂

 弘前高等学校の卒業生といえばすぐに「太宰治」ということになりますが、もちろん彼の他にも多くの優れた学生がこの弘前の地に集まり、そして巣立っていきました。卒業生の多くは帝国大学に進学して後の日本の学術文化や産業の発展に寄与しました。しかしながら、第二次世界大戦後の昭和22年、「学校教育法」が施行され、それまでの学制は廃止されることとなりました。こうして昭和23年に第28回生として最後の入学生を受け入れ(この学年は1年のみで修了)、昭和25年3月に第27回生を最後の卒業生として送り出して、弘前高等学校は姿を消すこととなりました。

 旧制高等学校は、たしかに帝国大学進学のための予備的な教育の場であったかもしれません。しかしそこには徹底的な西欧語教育をはじめとする教育内容や、寮を中心とした学生生活など、こんにちの大学における教養教育とは異なる、独自の性格・学風というものがありました。旧制弘前高等学校の建造物は外国人教師館を除いてすべて姿を消してしまいましたが、その校風は人々の記憶の中に生き続けています。