構内には弘前大学の歴史を感じることができるスポットが数多くあります。
こちらのページでは、学内に建てられている石碑を写真と共にご紹介します。(写真はクリックすると拡大表示されます)
人文社会科学部の中庭に建つ三基の石碑の中で一番小さな碑が「旧官立弘前高等学校創立10周年記念碑」です。碑面の左側に「拾年勤続者建之」とあり、昭和6年(1931)10月6日、官立弘前高校の創立10周年を記念し、10年以上の勤続者によって建てられたものです。
人文社会科学部の中庭に建つ三基の石碑の中で一番大きな碑が「虚空に羽ばたき碑」です。昭和35年(1960)5月、旧制弘前高等学校創立40周年を記念し、同校同窓会により建立されました。
永澤誠蔵先生は大正14年(1925)4月、旧制弘前高等学校柔道師範として赴任しました。退官までの38年の長きにわたり、柔道部の育成のため尽瘁された永澤先生の功績と徳とを顕彰するため、「永澤誠蔵先生頌徳碑」が建てられました。
平成元年(1989)8月、旧制弘前高等学校同窓会が母校創立70周年を記念して建てたものです。台座中央には「弘高生青春之像」と刻まれ、その上に白線二本に大鵬の徽章の学帽をかぶりマントをもった学生服姿と、下駄をはいた袴姿の旧制弘高生2名が並んで遠くを臨む像が立っています。
弘前大学山岳部と弘前大学医学部山岳部の学生、OBがヒマラヤなどの未踏の山に挑戦し、世界初登頂や新ルートの開拓など数々の実績を残してきました。この世界に誇るべき快挙を後世に残すため、初登頂の碑」が建立されました。
故加藤謙一氏は、少年雑誌の編集に一生を捧げ、今日の漫画文化の礎を築き、名編集長と謳われた人物です。平成22年(2010)9月7日、加藤氏の業績をたたえ、本学附属図書館2階に「加藤謙一文庫」の開設並びに附属図書館玄関右手に「加藤謙一記念碑」が建立されました。
平成18年(2006)9月30日、教育学部の西側緑地に、青森県師範学校を前身とする教育学部が創立130周年となることを記念して、弘前大学、教育学部、教育学部同窓会により「教育学部創立130周年記念庭園」の開設並びに「青森県師範学校校歌歌碑」が建立されました
弘前大学農学部創設30周年記念事業の一つとして、弘前大学農学部同窓会が当時弘前大学教育学部美術教育助教授であった岡田敬司先生(弘前大学名誉教授)に依頼し制作されたものです。
弘前大学農学部教授であった島善鄰先生は、農学部(現農学生命科学部)創設の中心人物であると同時に、大正中期に青森県で発生したリンゴ病害虫の駆除方法を確立し、青森県のリンゴ産業の危機を救ったことから、「リンゴの恩人」と称えられました。
明治31年(1898)10月10日、現在の農学生命科学部と理工学部の建物がある敷地に陸軍第8師団司令部が開設されました。大正4年(1915)、大元帥である大正天皇を迎え弘前練兵場で特別陸軍大演習が行われた際、師団司令部に大本営を置いたことを記念して建てられたものです。
津軽の生んだ小説家・太宰治(本名=津島修治)は、弘前大学の前身校の一つである旧制弘前高等学校の卒業生です。平成21年(2009)、太宰生誕100年の節目の年に、太宰と弘前大学との縁を恒久的に伝えるため、「太宰治文学碑」が建立されました。
弘前大学教育学部美術教育教授であった 岡田敬司先生(弘前大学名誉教授)の定年退官の記念作品として造られました。旧制弘前高等学校外国人教師館入口に向かって右側に設置されています。
昭和62年(1987)7月、弘前大学医学部地区緑化計画委員会と弘前大学医学部鵬桜会(同窓会)により建てられました。碑の傍らに植樹されたプラタナスの木が「ヒポクラテスの木」といわれる由来が刻まれています。
かつては長勝寺境内(弘前市西茂森)に置かれていた弘前大学納骨堂の移転に伴い、長勝寺境内にあった解剖体慰霊碑「献体之碑」を医学部基礎研究棟構内北西角の大黒松区画へ移転することになりました。平成10年には、みちのく銀行20周年記念助成金を受けて、大黒松区画は「大黒松小公園」として環境整備され、公園の中心に「献体之碑」が建立されました。
明治10年(1877)8月に初めて西洋リンゴが実ったといわれている私邸跡地(山野茂樹邸)が、現在の弘前大学医学研究科敷地であったことから、同地にリンゴ産業の歴史的足跡を顕彰するため、大黒松小公園内に「リンゴ初生りの碑」が建立されました。
昭和56年(1981)、弘前大学医学部第ニ外科(現消化器外科)では、世界に先駆けてイヌを用いた生体部分肝移植実験を開始しました。この生体部分肝移植の成功はより多くの患者を救うことになり、これを顕彰するため銅像が建立されました。
明治14年(1881)9月9日、明治天皇が東北地方御巡幸の折、この地にあった豪商金木屋呉服店に宿泊されたことを記念して、昭和2年(1927)12月4日、金木屋十三代当主武田清七の弟元七が尽力して建てたものです。
昭和52年(1977)11月6日、弘前大学教育学部附属小学校創立100周年を記念し建立されました。碑面は当時校長であった花田隆先生の書による「賛歌」(作詞・小野正文、作曲・前田行央)が刻まれています。
現在の弘前大学北溟寮のある土地は、もともと「りんごの神様」と言われた外崎嘉七氏の農園地「向陽園」があった場所です。明治41年(1908)9月24日、東北巡啓中の東宮殿下(明治天皇皇太子嘉仁親王のちの大正天皇)が「向陽園」に立ち寄り、りんご栽培に益々努力するよう激励しました。明治42年(1909)5月、外崎氏は同業者の目標とすべく、この碑を自費で建立しました。
北溟寮は、現在の教育学部校舎付近に建設された木造2階建の3棟(北棟、中棟、南棟)からなる寮舎でしたが、教育学部新校舎の建設にともない、緑ヶ丘に移転することになりました。平成18年(2006)10月7日、弘前大学北溟寮の新寮築40年を記念し、06前期北溟寮寮務委員会により記念碑が建立されました。
リンゴ品種「ふじ」生誕70周年記念碑は、世界一の栽培面積を誇る「ふじ」育成の偉業を讃え、藤崎町でのリンゴ研究とリンゴ産業の発展を祈って建立されました。錦石で造られた大きなリンゴのオブジェは、広場のシンボル的存在となっていて、藤崎町の観光スポットにもなっています。