弘前大学

旧第八師団司令部庁舎跡(旧 弘前大学農学部校舎)発掘調査について

2022.08.30

調査成果について/ 弘前大学人文社会科学部北日本考古学研究センター

1.経緯と調査の意義・目的

1872(明治5)年、日本初の鉄道が新橋‐横浜間で開通した際、海上に線路を敷くために造られた近代化遺産のひとつ「高輪築堤跡」(東京都港区)が、2021(令和3)年に国史跡に指定されたことは記憶に新しいでしょう。近現代考古学は、発掘調査や型式学といった考古学的手法を用いて、過去の生活の再構成や解釈を行うことを目的としますが、特に文献史料の乏しい地域や記録を残さなかった階層、日常生活に関わる事項に対して、新たな歴史解釈を加えることができます(桜井 準也2004)。こうした流れのなかで、戦跡として記録を残すことにより、後世への平和教育の材料としての活用も図られています。

陸軍第八師団は、日清戦争が終り、軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つで1898(明治31)年、弘前に創設されました。司令部は、その中核でした。弘前大学文京町キャンパス農学生命科学部および理工学部校内には、陸軍第八師団の司令部のほか、経理部、旅団司令部、憲兵隊本部がありました。司令部は北東北を管轄した中核にあたります。また、八甲田雪中行軍遭難事件において、その舞台の一つとして知っている方もいるでしょう。施設は青森の近代建築で有名な堀江佐吉(当時52歳)が手掛けました。堀江はその後、旧第五十九銀行本店(明治37年)や旧弘前市立図書館(明治39年)、旧弘前偕行社(明治40年)など多くの近代建築を手掛けることになることから、いわば堀江佐吉の建築スタイルが完成する出世作だったともいえるでしょう。

当時の建造物は、戦後の1949(昭和24)年、新制弘前大学の農学部校舎として使われていましたが、昭和30~40年代の校舎増築に伴い、残念ながらその全てが取り壊され、現存するものはありません。このように、弘前大学構内は、戦跡考古学から見て貴重な場所といえますが、校舎工事に伴い基礎などの痕跡を含む施設のほぼすべてが消滅してしまったと考えられていました。

そのようななか、2020(令和2)年度、キャンパス内の古い給排水管の取り換え(ライフライン再生)工事が行われることになり、センターではキャンパス内の地下の状況を確認する数少ない機会と認識して、施設環境部のご理解、ご協力を得て工事に立ち合いしました。この立ち合いの結果、7月17日、解体から免れた基礎とみられる石材と遺物を発見しました。解体によって建物は失われましたが、遺構として研究資料が眠っている可能性があり、その保存状態を確認することにしました。

センターでは2022年5月から、考古学実習の一環で弘前大学農学生命科学部中庭にて発掘調査(約30㎡)を実施しました。背景には、新型コロナの影響により、校外での実習が制限されており、そのなかで十分な教育を行うために学内調査を試行錯誤したこともあります。調査の結果、旧陸軍第八師団司令部庁舎の石積布基礎がある程度残存していることが分かりました。また工事に伴う立ち合い調査の結果、司令部跡周辺からも複数の関連資料が出土しました。

明治40(1907)年頃差出(絵葉書写真)

旧陸軍第八師団司令部庁舎(昭和38年頃
農学部時代の庁舎。手前のロータリーのみが往時の姿を示す。)

2.発見された遺構

旧師団司令部庁舎 石積布基礎列(右棟外側約20m分)

当時の写真からほぼ原位置を保っていることが分かりました。石材は大鰐のサバ石です。外面は丁寧に磨かれ、内側は小敲跡が残ります。石材をつなぐチキリも出土しました。上下にモルタルが付着します。こうしたモルタルやチキリを入れる手法は、弘前城天守石垣にも見られ、近代建築の工法を知ることができます。

検出された石積布基礎

3.主な出土品


津軽の近代建築における瓦葺建物の初期の事例となります。瓦は新潟県阿賀野市の安田瓦の系統(赤褐色瓦)と、その技術で作られた地元産とみられる瓦(黒褐色瓦)との2種がみられます。
そのほか、レンガ・碍子・陶磁器・壁材などが出土しました。

出土した基礎石材
(1-3:地覆石)※灰色トーンはモルタル付着範囲

司令部庁舎跡出土品
(1・2:陶磁器、3:ガイシ、4-6:黒褐色瓦、7:赤褐色瓦、8:壁材)

4.その他、周辺調査で見つかった出土品

旧仮兵舎跡

コーラ瓶
エンボスから1945年製造で進駐軍用に出回っていたものと判明しました。コーラは大正期に輸入されましたが、高級品で地方には出回りませんでした。戦後、進駐軍が持ち込んだのが普及の始まりとされます。したがいまして、本出土品は青森では初めてコーラが飲まれたことを示す資料となります。

井戸筒
井戸があったとされる場所から出土しました。大正~昭和初期、常滑系統の窯で生産されました。江戸時代から続く、日本海を介した交易を知ることができます。

師団跡周辺出土品(コーラ瓶)

5.まとめ

  1. 消滅したとされていた司令部庁舎の遺構が残っていたことが判明した。
  2. 戦後、武装解除に向けた動きの中で、司令部内での進駐軍の滞在を示す確実な資料が見つかった。
  3. 文献に記載されることのない、瓦や基礎など当時の建築材の仕様や物流が判明した。
  4. 規模や部屋割り、仕様が分かったことで、建築構造の復元につながる。
  5. 考古学的検討をふまえると、師団の増設は、軍都としての都市形成だけでなく、近代建築の基盤となる材料調達の体制整備と、地元への新技術の定着の面で津軽地域における近代化に大きな役割を果たしたことがうかがえる。

  6. 調査成果については8月6日(土)午後1時より現地説明会を行い、県内外から約50名が参加されました。参加者には戦跡考古学を専門とする研究者のほか、当時の建物を知る地域の方、特に遺構や遺物を見ることで、当時のことを思い出してお話しいただいた方もおり、主催者側としても学ぶことも多々ありました。そして、調査地は、弘前の街が軍都から学都へ大きく変換した場ともいえます。遺構や遺物をみて、その歴史を学ぶ学生や家族連れの方が印象的でした。
    なお、成果の一部は8月末人文社会科学部発行の『人文社会科学論叢』、本センターの特別展での公開を予定しております。
    最後に、調査に際しご協力いただいた個人、機関の方には、厚く御礼申し上げます。

    弘前大学がもっとわかる WEBマガジン『HIROMAGA(ヒロマガ)』の上條先生特集記事はこちら!

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